放射能の民

また更新をしないまま、2012年も2月半ば近くになってしまった。
乳酸菌生活は今も続けている。乳酸菌生活についてはまたの機会として、今回は福島県民が阿武隈川に除染土を捨てているという情報がツイッターで問題になっているので、それについて思うところを書いてみたい。

http://portirland.blogspot.com/2012/02/blog-post_09.html

小生はこの情報については何も知らないので、この信憑性については何も評価できる立場ではない。
もしこれが行政が勝手にやっていたり、お金を受け取って除染を請け負った業者がやっているのなら、厳しく追及、糾弾すべき問題だと思う。だが、「福島県民が」となると、それ以外に一般の県民も個人的に除染して出た放射性廃棄物を川に捨てているというように読めてしまう。そんなことがあるのかどうかも知るよしもないのだが、もし一般の県民が個人的に除染した廃棄物を川に捨てていた場合、それを非難できるのだろうか?
この有害な放射性物質をまき散らしたのは誰なのだろうか。放射能汚染だらけにしておきながら、除染すれば大丈夫と言っているは誰なのか。放射能まみれになってもう11ヶ月近くになろうというのに、除染は進まず、除染してもそこで出た放射性廃棄物の引き取りもせず、保管場所もままならなず、とりあえず自宅の隅で保管してくれと言う。ようやく最近になって一部地域では仮保管場所が出来てきてはいるが、そういう状況で健康被害をもたらすとわかっている物質を自宅敷地内に置きたくなく川に捨てた人がいたとして、その人を責められるのだろうか。
福島の河川はすでに猛烈に放射能で汚染されている。雨が降るたびに山から放射性物質が流れ込み、日々の生活排水からも放射性物質は流れ込んでいるだろう。これからの雪解け水からの汚染も膨大だろう。
すでに汚れているからと言って、そこにまた有害とわかっている物を捨てていいと言うことにならないことはわかっているが、自分の責任ではなく自分のそばにまき散らされてしまい、それを撒き散らかした連中は引き取りする姿勢がない。そばに置いておけば日々健康が害される。どうしようもなくなってすでに猛烈に汚染されている川に捨てたとして、それを人非人と責められるのだろうか。
昨晩、このことで福島県民を「ゾンビ」、「人間と思ってはいけないw」とツイッターで非難している人がいたので、ちょっとやりとりしたのだが、そこで感じたのは彼らが非難しているだろうユダ金連中と同じ選民思想だった。
せっかく危険を知らせてあげていると言うのに、避難もせず放射能を全国、全世界に拡散している。福島にとどまっているうような無知蒙昧な連中はすでに人間ではなくゾンビだ。勝手に放射能被曝で死ぬのは構わないが、放射能汚染を他に広めないでくれ、と言うようなニュアンスだった。自分達と同じ考えで避難する人はまともな人間なので応援するが、避難しないような多くの福島県民はゾンビと差別してはばかることもない。こうはっきり言うと彼らは怒るだろうが、数年後に福島で癌や白血病などが多発すれば、あれだけ警告して『あげたのに』と嘲笑うのだろう。
被災者、被害者に寄り添うような言動をしながらも、自分の言うことを聞かないような人間はゾンビと切り捨てる。そこにそういう人達の優越思想、差別意識が見えてしまった。
彼らが批判する、福島県産など放射性物質を多量に含んでいる可能性のある食品を食べて応援する、小生もそれは違うと思っていたが、どれだけ内部被曝の危険性を認識しての行動かは人それぞれなのだろうが、そういう行動を実践している人は尊敬すべき人達なのだなと思うようになった。被曝の危険を叫ぶだけの人より、そういう人達の方が、もしかすると優しく善良な人が多いのかもしれない。
何も知らない、判断できない子供にまで強制することはいけないと思うが、それなりの人生経験を積んだ大人が、自主的にそういう行動を取ることは、自分の健康、生命を犠牲にするということで崇高な行為なのではないかと思うようになった。ただ、それが正しい行為と言ってすすめることは出来ないが・・・
今回、放射能汚染を批判している人達にも、優越意識、傲慢さがあると気が付いたのは、ある意味勉強になったと思う。いまだ福島県に残っているような人々は、彼ら、彼女らにとっては差別の対象なのだ。もちろんみんながみんなではないだろうが。
小生は中庸を目指していたのだが、いまだ中庸には程遠かったということもわかったような気がする。